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特集 音楽文化についての考察 まとめ

投稿日時:2024年10月
 ←この月の目次

前編→特集 音楽文化についての考察 前編

中編→特集 音楽文化についての考察 中編

後編→特集 音楽文化についての考察 後編

評価するまえに - 認知バイアスの落とし穴

前回の記事を書いてからしばらく、音楽の正体とあり方を考えていました。しかしあるとき、音楽とは関係なさそうな本を読んでいて見つけたのは、このような重要な教訓です。

脳は自分が間違っていると気づくことが心底嫌いである。確証バイアスはやっかいな習性で、誘導ミサイルのように、すでに信じている考えの裏付けとなる証拠の切れはしに照準を定め、これよりはるかに分厚い証拠の束が私たちは完全に誤ったほうへ導かれているかもしれないと示唆していても、平然と無視をする。控えめに言っても、なぜ私たちがおおかた自分の政治的な展望に合致した情報媒体のニュースを好むのかが、このことからうかがえる。これより極端な例を挙げるなら、陰謀論者とどんなに議論したところで確信をくつがえせないのも同じ理由から来ている。私たちは自分版の現実を裏付ける出来事を選り好みして、それ以外には見向きもしないのだ。[参考文献1]

小生は、「音楽は意味不明で、価値がないものである」というバイアスに囚われているのでした。こういった自らの信念は、上述の確証バイアスのために、容易に捨て去ることはできないものです。個人が自分の見解を持つのはかまいません。けれども、科学的な態度というのは、もし動かぬ証拠で反証されたら、間違っている自身の信念を喜んで・・・放棄し、「音楽は(未知の技術が必要かもしれないが)解析可能」で、「音楽は(未知の価値かもしれないが)人類にとってやはり必要なものである」というような可能性を直ちに認めるような態度を示すことが挙げられます。そして、そのような反対意見の存在にも寛容であること、また、自分の意見、あるいはどんな権威ある人の説であっても手放しで信用せず、一度は批判的に捉えることも必要です。リチャード・ドーキンス先生は、著書の中で次のような出来事を語っています。

私は以前に、私が通っていたオックスフォード大学の動物学教室で敬愛されていた長老のエピソードを披露したことがある。長年の間彼は、ゴルジ器官(細胞内部にある顕微鏡で見える構造)というのは実在しない人為的なもので、幻想にほかならないと、熱烈に信じていた。毎月曜日の午後は教室全体で集まり、外部から招いた講師の研究発表を聞く習慣になっていた。ある月曜日、講師がアメリカの細胞生物学者だったとき、彼はゴルジ器官が実在のものであるという完璧に説得力のある証拠を提出した。講演のあと、かの長老はホールの前方に進み出てそのアメリカ人と握手し、興奮もあらわに、「いや先生、私は君に感謝したい。私はこの十五年間ずっとまちがっていました」と言った。私たちは手が赤くなるまで拍手した。[参考文献2]

進化の過程で脳に刻み込まれた認知バイアスを克服するのは、並大抵のことではありません。音楽に対して本当にバイアスのない評価をするには、論理的思考と十分な科学知識を持ちながら音楽は全く知らないというような人物が必要です。しかし、前の記事に書いたように既知の文明はみな音楽をもっているとされるので、もしかすると地球上に適任者はいないという恐れすらあります。ただ、このバイアスの存在を念頭に置くことで、存在するであろう対立意見を想像することはできるようになりました。最適ではないにせよ、多少改善はされたと信ずるものです。

音楽をいかにして「理解」するか?

音楽を音響学の観点から見るアプローチは、問題の核心に迫るものではありませんでした。また人類の進化から音楽の起源を探るアプローチは、まだ説得力のあるものではありませんでした。それではもう一度視点を変えて、実際に音楽に対したときにどのような態度をとるべきかを考えてみましょう。そのためにはまず、作曲者が作曲の時に使った暗号を知りたいものです。しかし、「音楽の科学[参考文献3]」の13章のはじめの方には、次のようにあります。

音楽というのは一体、どういう芸術なのか。それは当の音楽家たちにすら、よくわからないことだろう。自分たちの作る音楽によって果たして何が聞き手に伝わるのか、そもそも音楽によって何かが伝わるということがあるのか、それすら明確にはわからないのではないか。

なんと、音楽家でさえもそれはわかっていないというのです。そして一章を割いて音楽の意味しうるものや、試みられた解釈について述べています。音楽も場合によっては「意味」を持つことがあり、たとえばポピュラー音楽ではジャケットで説明されていたり、歌詞やステージ上の仕草に現れていたりします。また音楽の中には社会的機能が与えられているものがあり、そのような音楽はそれの社会的機能自体が、その文化における音楽の「意味」とみなされているのです[1]。しかしこれらの「意味」は、いわば音楽の外から貼り付けられたラベルのようなものです。著者は音楽を構成する音それ自体に意味はあるのか探りたいと述べ、章の最後ではこう書いています。

音楽を構成する各要素はランダムに組み合わされているわけではなく、明確な意図を持って組み合わされているのだから、音楽の伝える情報は偶然ではなく、必然的に生まれているのだ。聴き手はその情報を知覚できる。だが、音楽以外の何物にも変換できない。これはおそらく、情報というものを考える上で極めて重要なことだろう。情報は必ずしも、「何かについての情報」であるとは限らないのだ。言語が伝えるような情報だけが情報ではないということである。音楽が何か音楽以外のことを伝えているのではなく、音楽そのものが情報であるということだ。

音楽に対して理解できない、意味がわからないと思っていた原因の一つが明らかになりました。音楽は言語や他のなにかに翻訳できるものではないし、それゆえ言語による思考で説明できるわけがないし、誰かが何らかの解釈を述べることはあっても、えてして自分が受けたイメージに重なるものにはなり得ないわけです。

そのような性質があることがわかったところで、音楽はどう受け取るべきものなのでしょうか?伊福部昭先生は、「音楽入門[参考文献4]」において、その作品中において音の並びがいかに美しく構成され、それがどのように展開するかが第一であるとしています。そして、視覚や触覚、味覚、温度感覚、空間、哲学、宗教、文学、そのほかおよそ音楽ではないもので連想を逞しくするのは、連想が連想を呼び、ついには音楽本来のものより全く遠い幻想へ行き着いてしまうとも述べています。たしかに、これまで見てきた音楽批評は、しばしばそういう比喩的表現が多用されていたように思われます。ストラヴィンスキーさんは「音楽は音楽以外の何ものも表現しない」と言っています。

また、音楽が氾濫する現代生活にも問題があると指摘しています。小生もこの特集の前編で気づいていたように、あらゆる機械から心情を無視した音楽が勝手に流れていると、このような状態では、私たちはもはや、音楽を精神の糧として受け取る態度を持することができなくなるわけです。音楽を聞き流すことを習慣にしてしまったところへ、今度は何か音楽作品を聴いてみようとするときにはどうなるのかというと、反動がやってきて単に音楽が見事に構成されていると感ずるのみでは鑑賞とは考えられず、哲学的思索とか、文学的連想とかを無理に作り出すことに努力し、ついに、さきに述べた音楽の鑑賞から遠のいていく結果を生むのです。これから救われるためには、あまりに多すぎる音楽から逃れることだとも述べられています。

音楽鑑賞の基本とは、聞こえてきたそれが音楽であると認識し、音の構成の出来栄えが見事であると感じることだったのです。

おまけ - 無人島に持って行くなら?

英国BBCラジオで80年以上にわたって放送されている、Desert Island Discsなる番組があります。無人島に漂着し、オーディオ録音(大抵は音楽)を8つ、シェークスピア全集、聖書あるいは宗教的・哲学的な本、さらに好きな本一冊と贅沢品一つを持ち込むことができるという設定のもと、ゲストがそれぞれ何を持ち込むか、それを入れるのは何故か、でいろいろとトークをする内容です。小生も、8つの音声作品を選んでみました。

track1/John Cage - 4分33秒

4分33秒の間、奏者は何の音も発しない音楽。かつてこの曲が発表されたとき大変な議論を巻き起こしたという伝説の一曲です。実際には生きている人間がいる限り全くの無音にはできず、聴衆自身の発する音や周囲の環境音に意識を向けさせる意図があるのだと言われています。静寂の中で感覚を研ぎ澄ますことでなにかに気づけるかもしれないし、なにかを思いつくかもしれません。

track2/Weather Report - Black Market

アルバム「8:30エイト・サーティース」の1曲目に入っているヴァージョンです。中古CD・レコードの即売会があり、そこでたまたま見つけて、Weather Reportというグループ名が特徴的だったので購入。初めて聞いたそれはこれまで聞いてきたどれとも違いながら、「自分が聴きたかったのはまさにこういうやつだ!」とばかりに気に入り、それ以来、いわゆるフュージョンを好んでかけるようになってしまいました。小生にもいくらかは、音楽的な感性があったというわけです。

track3/[EMPTY]


track4/映画「コマンドー」の音声

全編から音声だけ取り出して、ただの音声と言い張って入れます。もちろん映像があれば楽しみは倍増するけれども、「コマンドー」なら音声からシーンを脳内補完するのは容易です。吹き替えは玄田哲章版で。

track5/[EMPTY]


track6/Weather Report - Barbary Coast

小生のテーマソングとして使いたい1曲。例えば小生が野球選手だとしたら、登板するときにスタンドから流れてきてほしいです。本格的にテーマソングを制定しようとするなら、そのために新しく作曲するべきだとも思うのですけどね…。

track7/Erik Satie - Vexationsヴェクサシオン

52拍からなるモチーフを840回繰り返す音楽。テンポの指定はないが、演奏開始から終了まで18~25時間ほどかかるということです。これは音楽を「楽しむ」ことではなく、むしろ反対に演奏や聴取を「苦しむ」ことを目的として作られた希有な曲といえます。大抵の音楽が聴覚のチーズケーキだとしたら、この曲はまるで苦いお茶。しかし忙しい現代から離れた無人島でなら、何度となく再生できるでしょう。

track8/不詳 - 君が代

かつていた日本を思い出し、最期まで忘れないように。きっと日本はそこにあり続けるし、やはり小生が帰るべき場所は日本しかないのです。


track3とtrack5は、小生の音楽に関する知見が不足している故に、入れるべき曲を決めることができませんでした。候補としては、少ない枠を最大限活かすために長尺曲を入れるならPink Floyd - EchoesやKraftwerk - Autobahn、飽きにくいであろう高難度な曲ならフランツ・リスト - エステ荘の噴水や同じくフランツ・リスト - 超絶技巧練習曲変ニ長調《夕べの調べ》、または人間による演奏が不可能なほど複雑なマルク=アンドレ・アムラン - サーカス・ギャロップ、若しくはジョン・スタンプ - 妖精のエアと死のワルツあたりです。無人島に持って行くなら、それを気に入っているからという以上の特別な理由が欲しいものです。


小生は科学を信じていますから、聖書の代わりに「ブルバキ数学原論」あたりが欲しいです。自由枠の本としては、「うんち大全」をリクエストします。この本は学生時代に図書館で読み、たいそう気に入っていた本です。けれども手元にない(どころか何年も神保町はじめ各地の書店で探しているのに見つからない)ので作者も出版社も不明です。

そして贅沢品。これには無生物で、島からの脱出や外部との通信に役立たないものでなくてはならないという条件がついています。時計は島での生存に役立つかもしれないのでおそらく没収されるでしょう。カメラはバッテリーやフィルムが尽きたら無用の長物になってしまいます。そこで、小生は酒を持ち込みたいと思います。一番のお気に入りの酒、すなわちLemon Hart & Son Original 1804。当然飲めばなくなるので、島での最後の日が来るまで、大事に保管しておくのです。帰宅後のビールのように、とっておきの酒があることの気分高揚効果は計り知れません。

最後に、8の音声がそれぞれ吹き込まれた8枚のレコードが波に攫われそうになり、1枚だけしか残せないとしたらどれを選ぶかという質問。これには、track1/John Cage - 4分33秒、これを選びます。島流しになるまでこれからもいろいろな音楽との出会いがあるでしょう。経験を重ねて好みも移り変わるかもしれません。しかし音があるためには、まず媒質が振動していない空間、すなわち無音がなくてはならないのです。タブラ・ラサである無音だけがあるこの曲なら、まず間違いなく今後も小生の音楽観にとって還る場所への道標たりえるでしょう。大分むぎ焼酎二階堂のCMより、2019年「本を読む人」篇から引用して、本特集は完結です。

いつのまにか、
つぶやきすら
大声になってしまった。

出口のない
喧騒の中で、
沈黙だけが語りかける。