学生でない今も、音楽は苦手教科。
きっと読者のあなたにも、苦手な教科がある(あった)のではないでしょうか。人によって得手不得手はあるものだし、先生との相性などもあるでしょう。
小生にとって、学校で苦手だった授業の筆頭は音楽でした。保育園の時には(理由は忘れたものの)ピアノ教室から逃げ出し、小学生の時には、五線譜を見るだけで解読の困難さに嫌気がさし、白と黒の鍵盤にはその広大さに迷わされ、縦笛のシビアかつ複雑怪奇な運指は脳が理解を放棄したのでした。そして嫌いな教科にありがちな、「こんなの日常生活で何の役に立つんだよ」というレッテルを貼るに至ると、もはや小生と音楽の間は深い溝で隔てられ、両者の仲は修復不能と思われました。
ところが、執筆している今まさにGoGo Penguinの「A Humdrum Star」をかけています。演奏も歌唱も作曲も相変わらず全くできないのに、あんなに嫌いで役立たずだったはずの音楽を、放棄するわけにもいかない自分がいるのです。意味不明な音楽の授業よりも、こんな矛盾だらけの自分のことが嫌いです。自分自身のことをいつまでも嫌いなわけにもいかないので、自分と音楽の関係について考察してみました。両者の冷えた関係を穏やかにするヒントを、見つけられるかもしれません。
誰でも親しむものらしいです。
小生も現代人らしく、物心ついたときからあらゆるメディアに音楽を聴かされて育ってきました。最初に聴いた音楽はなんだったか思い出せません。古い記憶にある音楽といえば、午後5時の時報で流れていた「七つの子」か、金曜ロードショーの途中で流れた大分むぎ焼酎二階堂のCM[1]か、従兄のケータイから流れた「恋のマイアヒ」あたりでしょうか。町内放送、テレビ、ラジオ、ケータイ、そのほかあらゆるスピーカーのついたメディアから音楽は流れ続けました。
ところで、多くの人たちは、メディアから分離した「音楽そのもの」を楽しんでいるようです。音楽に正対して、全神経を聴覚に集中させるような音楽鑑賞。小生はそのような音楽鑑賞をしようとしても、1曲終わるまで集中しきれずに途中で雑念が入ってしまい、どんな音楽だったかほとんど記憶に残っていないものです。他の何かをしているときの雑念を音楽でかき消すことはできるものの、鑑賞とは芸術作品を理解し、味わうこと
[2]なので、このような聴き方では、理解したとも味わったともいえません。
このように正規の音楽鑑賞ができないので、多くの人が当たり前のように好きな音楽制作者や歌手の議論で盛り上がっているのも、認めはするけれども理解はできません。ですから、「好きなアーティストは?」と聞かれても、きょとんとしているよりほかにない[3]のです。他人からはあまり理解されないのですが、本当に「音楽を鑑賞する」文化は小生の中に存在しないのですから。恐らくこれからもできないでしょう。
オーディオ機器は好き。
一ついい知らせがあって、音楽を録音したり再生したりするオーディオ機器のことは好きです。音楽を単に聴くことはするので、それなりの機器は自前で持ってもいます。思い起こせば、小学校に入学してから学校をあちこち案内されたとき、放送室の機器がとても印象的で、その後放送委員として放送機器を操作したり声をお届けしたりしたものです。高校生の時も放送部に入りました。機械好きであるところのオーディオ好きですね。
しかし、楽器という機械はどうも苦手です。保育園のときから高校一年生まで音楽の授業を受けたけれど、そのすべての期間で苦しめられました。うまく操作できないのはもしかすると、楽器は誰でも演奏できるようなものだと、プロミュージシャンの存在意義が脅かされるので、あえて演奏しづらいように作っているから、なのかもしれません。だいたい、楽器というものは操作に対して出る音が大きすぎて怖いです。拡声器のない時代の名残とも考えられるにしても、そんな耳を聾するばかりの音を出す必要はないでしょう。オーディオは好みの音量にできるのですが。
理論から理解を試みる。
苦手だったはずの音楽をなぜ取り入れているのか。答えを探る前に、回り道してまず音楽とは何か、予備知識をつけることにしました。音についていま知っていることは、空気の圧力変動が波として伝わるものだということ、それだけです。そこで来月は、物理の観点を手がかりにして、そこから幅を広げていく方針で調べてみたいと思います。芸術やクオリアの概念は難解であるけれど、物理の観点からなら、それらに定量化された示唆を与えられるかもしれません。
問題のヒントは見つかるのか。特集は来月号に続きます。