「杜撰」について、のお話
投稿日時:2024年6月
←この月の目次
意味は…
「杜撰」。古くは「ずざん」と読んだそう。
第一の意味は著作物などの典拠が明らかでないこと。いい加減に書かれていて、誤りが多いこと。
[1]
第二の意味は物事のやり方がぞんざいで、手抜きが多いこと。
[2]とのこと。
「杜」は宋時代の詩人、杜黙さんとされており、「撰」は詩を作ること。杜黙さんの作った詩は、定型に合わない自由律が多く、そこから転じて現在の意味になったといいます。とまぁ、ここまでは読者の皆さんもご存じのことでしょう。
では…
杜黙さんの詩は実際のところどれくらいいい加減だったのでしょう?気になってちょっと調べたのですが、発見に至らず。yahoo知恵袋によると国会図書館には文献がありそうですが(中国語の文は読めません…)。[3]
しかし、ですよ。杜黙さんは当時有力な詩人だったことが示唆されているような感じがします。人に評価されるには、まず著作を世に出さなければ始まりません。当時の紙の価値のことを考慮すれば、内容が小生のウェブログみたいなのでは割に合わないはずです。他人に読んで評価してもらえるほど、杜黙さんの著作は世に出回ったのです。評価を受けた結果が「詩の規則に合わないからいい加減なやつだ」だとしても。
そうして、「杜撰」の故事とともに約1,000年後の現代までその名が残っています。並大抵の作家でできることではありません(肝心の詩はほとんど語られませんが…)。
自分の著作を世に出す。物書きとしてとても大事なことなのですね。小生もこのサイトを管理する限り物書きの端くれですから、書いた文を世に出していることになります。誰かに届いているかはともかくとして。届いているといいな。
ちなみに…
自由律の詩人といえば、日本では種田山頭火先生でしょう。小生の育った山口県では山頭火先生の影響で無季自由律俳句に親しむ人が多くいます。そう、山口県民の心をつかんでいるのです。
往時の杜黙さんの詩も、文壇では「いい加減だ」という評価でも、意外と市井の人々からは人気だったのかもしれません。
自由律の詩は、それほど「杜撰」なものなのでしょうか?「杜撰」な文章は、常に悪文なのでしょうか?小生はそうは思いません。「杜撰」という言葉は、今ではかなりマイナスの印象が与えられてしまっていますが、本来は自由な詩人の生き様を表した言葉だったのではとも思うのです。
おおらかに書いた文章にこそ、創造性が表れそうな気がします。仕事でもないんだし、肩の力抜いて書いていこうかな。